三国志人名事典 魏志18

李典Li Dian

リテン

(?〜?)
漢破虜将軍・離狐太守・都亭愍侯

字は曼成。山陽国鉅野県の人。

従父李乾は侠気のある人物で、食客数千家を集めて乗氏で暮らしていた。初平年間、軍勢を連れて曹操に属し、寿張で黄巾賊を破った。また従軍して袁術攻めや徐州制圧にあたった。呂布が叛乱を起こすと、李乾は曹操の命により乗氏に帰り、近隣諸県を手懐けることとなった。呂布配下の別駕薛蘭・治中李封が謀叛しようと彼を誘ったが、李乾は拒絶し、ついに殺された。

李乾の子李整がその軍勢を引き継ぎ、曹操の諸将とともに薛蘭・李封を攻撃した。薛蘭らが敗れると兗州平定戦に従軍し、功績を立てた。次第に昇進して青州刺史となり、亡くなった。李典が潁陰県令となり、また中郎将となって李整の軍勢を引き継いだ。

李典は若いころから学問を好んで軍事を顧みなかった。学者について『春秋左氏伝』などさまざまな書物を読んだ。曹操は彼の学問好きを評価して人々を統治させようと考え、離狐太守に任命する。

曹操と袁紹が官渡で対峙していたとき、李典は一族と部下を動員して、穀物・絹を軍用に充てた。袁紹が敗れると裨将軍に任命され、安民に駐留する。

袁譚・袁尚兄弟を黎陽で攻撃したとき、李典は程昱らとともに兵糧を水上輸送するよう命じられた。袁尚は魏郡太守高蕃を黄河のほとりに出して、その水路を絶たせた。曹操からは陸路を通るよう指示が来たが、李典は「高蕃の軍勢は鎧を着ている者が少なく、河の流れを当てにして油断している。国家のためなら命令に背くことも許される。撃つべきだ」と述べ、程昱も賛成した。北進して黄河を渡り、高蕃を撃ち破って水路を回復した。

劉表が劉備を派遣して北方の葉に侵出させた。曹操は夏侯惇・李典にこれを防がせた。ある朝、劉備は陣営を自焼して撤退した。李典は「理由もなく敵が去ったのは伏兵があるからです。道は狭くて草木が生い茂っているので危険です」と諫めたが、夏侯惇は聞き入れず、李典を留守に残して于禁とともに追撃した。はたして劉備軍の伏兵により不利となったが、李典が救援に駆け付けたので敵はちりぢりに敗走した。

曹操に付き従って鄴包囲に参加した。鄴が陥落すると楽進とともに壺関の高幹を包囲、また長広の管承を攻撃、いずれも撃ち破った。捕虜将軍を拝し、都亭侯に封じられる。

李典の同族と配下の者三千家あまりは乗氏に住んでいたが、李典は彼らを魏郡に移住させることを願い出た。曹操は笑って「後漢の耿純に倣うお考えか」と言った。李典「私は鈍重で功績もありませんが、恩寵だけが過分に与えられております。一族挙げて尽くすのは当然です。まだ賊の征伐は終わってないので、お国を充実させるべきと考えます。古人に倣うつもりはございません」。こうして一族と配下一万三千人が魏郡鄴県に移住することになった。曹操はこれを評価して破虜将軍に昇進させた。

張遼・楽進とともに合肥の守備を命じられたが、孫権が軍勢を催してこれを包囲した。張遼は城外に出て戦おうと考えたものの、平素より楽進・李典と仲が悪かったので、彼らが賛成しないのではないかと心配した。しかし李典は憤然として「これは国家の一大事。私的な恨みのために公的な道義を斥けることはしませんぞ」と言った。こうして張遼とともに城外に出て、孫権を撃ち破って敗走させた。百戸の加増を受けて都合三百戸となった。

李典は学問を好んで儒学の教養を重んじ、諸将と功績を競うことはなかった。立派な人物を尊敬して謙虚な態度をとったので、軍中はみな李典を称賛した。しかし李典は三十六歳で亡くなり、愍侯と諡された。

【参照】于禁 / 袁術 / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 夏侯惇 / 楽進 / 管承 / 高幹 / 高蕃 / 耿純 / 薛蘭 / 曹操 / 孫権 / 張遼 / 程昱 / 李乾 / 李整 / 李封 / 劉備 / 劉表 / 呂布 / 安民 / 潁陰県 / 兗州 / 合肥侯国 / 官渡 / 魏郡 / 鄴県 / 鉅野県 / 壺関 / 黄河 / 山陽郡 / 寿張県 / 徐州 / 葉県 / 乗氏県 / 青州 / 長広県 / 離狐郡 / 黎陽県 / 県令 / 刺史 / 太守 / 治中従事 / 中郎将 / 都亭侯 / 破虜将軍 / 裨将軍 / 愍侯 / 捕虜将軍 / 別駕従事 / 春秋左氏伝 / 諡 / 黄巾賊

李通Li Tong

リトウ

(168?〜209?)
漢裨将軍・汝南太守・都亭剛侯

字は文達。江夏郡平春県の人。幼字を万億といった。

長江・汝水のあたりでは侠気で知られ、同郡の陳恭とともに朗陵で挙兵すると、多くの人々が彼に身を寄せた。また周直という人が二千余家をかかえ、李通・陳恭らと手を組んでいたが、実際には仲が悪かった。李通は周直を殺そうと考え、陳恭が決断を下せなかったので一人で計画を立て、周直と会合を開いて宴会の席上で彼を討った。人々は大騒ぎしたが、李通は陳恭を連れて周直一党の頭だった者を殺し、その配下の人々を我が物とした。

陳恭の妻の弟陳郃が陳恭を殺して軍勢を奪うと、李通は陳郃の軍を攻撃し、彼の首を斬って陳恭の墓に祭った。また黄巾賊の頭目呉霸を生け捕り、その軍勢を帰服させた。大飢饉が起こったとき資産を投げ出して救済にあたり、粗末な食事を兵卒と分け合ったので、人々はみな彼に従った。こうして敢えて彼の領域を侵す賊はなくなった。

建安年間の初め、軍勢を引き連れて許の曹操に臣従し、振威中郎将に任じられる。汝南西境に駐屯した。曹操が張繡を討伐したとき、劉表が張繡を支援したため曹操は敗北した。李通が軍勢を率いて曹操の元に駆け付けたので、曹操は戦うことができた。先陣となり、張繡軍を大いに撃ち破ったので、裨将軍に任じられ、建功侯に封じられた。

汝南郡から二県を分割して陽安郡が立てられ、李通はその都尉となった。李通の妻の伯父が法を犯し、朗陵県長趙儼は死刑が相当とした。李通の妻子は泣きながら減免を嘆願したが、李通は「私情をもって公務を廃することはできない」と言い、趙儼が法律を厳守して権勢に迎合しないことを評価して、彼と親交を結んだ。

袁紹は官渡で曹操と対峙すると、李通に使者をやって征南将軍に任命し、また劉表も彼を味方に誘ったが、李通はいずれも断った。親戚や配下の者たちが涙ながらに「いま陽安郡は孤立して救援もありません。滅亡しないうちに袁紹に従いましょう」と訴えたが、李通は剣の柄に手をかけて「曹公は必ず天下を平定されるだろう。袁紹は威勢がいいものの部下の任用がでたらめだから、最後には公に捕らえられるだろう。死んでも曹公を裏切らぬぞ」と宣言し、袁紹の使者を斬り、征南将軍の印綬を曹操に送り届けた。

郡内には賊の瞿恭・江宮・沈成らがいたが、李通はその一党を討ち滅ぼし、彼らの首を中央に送った。こうして淮水・汝水地域を平定し、都亭侯に移され、汝南太守に昇進した。また賊の張赤らが五千余家をかかえて桃山に屯していたが、李通はこれを撃破した。

劉備と周瑜が江陵城の曹仁を包囲したとき、劉備は関羽を別働隊として北道を断ち切らせていた。李通は軍勢を率いて駆け付け、馬を下りて逆茂木を取り除き、包囲軍に突進した。戦いながら進み、曹仁軍を助け出した。その武勇は諸将のなかでも随一であった。

李通は道中で病気となり、四十二歳で亡くなった。二百戸が追贈されて都合四百戸となり、曹丕が帝位に昇ると剛侯と諡された。

【参照】袁紹 / 関羽 / 瞿恭 / 呉霸 / 江宮 / 周直 / 周瑜 / 沈成 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 張繡 / 張赤 / 趙儼 / 陳恭 / 陳郃 / 劉備 / 劉表 / 官渡 / 許県 / 江夏郡 / 江陵県 / 汝水 / 汝南郡 / 長江 / 桃山 / 平春県 / 陽安郡 / 朗陵侯国 / 淮水 / 建功侯 / 県長 / 剛侯 / 振威中郎将 / 征南将軍 / 太守 / 都尉 / 都亭侯 / 裨将軍 / 印綬 / 諡 / 黄巾賊 / 幼字

臧霸Zang Ba

ソウハ
(サウハ)

(?〜?)
魏執金吾・特進・良成威侯

字は宣高。泰山郡華県の人。

父臧戒は県の獄掾の官に就いていたが、太守が法律を悪用して人を殺そうとしたことに従わず、太守は怒って臧戒を逮捕させ、郡役所に連れてこさせた。このとき臧霸は十八歳だったが、食客数十人を引き連れて費県の西山で父を奪い返した。護送者は百人余りいたが、敢えて抵抗できる者はいなかった。臧霸は父とともに東海に出奔し、彼の勇名は知れ渡った。

黄巾賊が蜂起すると陶謙に属して討伐にあたり、騎都尉に任じられる。徐州で兵を集め、孫観・呉敦・尹礼らとともに開陽にたむろした。曹操が呂布を攻撃したとき、臧霸は呂布に味方したため、呂布が捕らえられたのちは身を隠す。曹操は賞金を出して臧霸を捜し当てたが、引見すると彼が気に入った。そこで臧霸に呉敦・尹礼・孫観・孫観の兄孫康を招かせると、みな曹操の元に出頭した。曹操は臧霸を瑯邪相に、呉敦を利城太守に、尹礼を東莞太守に、孫観を北海太守に、孫康を城陽太守に任じ、青州と徐州を臧霸に委任した。

『張紘伝』に張紘の依頼により趙昱の祭祀を復活させた「琅邪相臧宣」が見える。臧霸のことだろう。

はじめ曹操は兗州にいたとき、徐翕・毛暉を将軍に任じていたが、兗州諸郡が叛乱すると徐翕・毛暉も曹操に叛いた。のち曹操が兗州を平定すると、徐翕・毛暉は臧霸に身を寄せた。曹操は劉備をやって二人の首級を送るよう説得させた。しかし臧霸は「私が独立できたのも、そうしたことをしないからです。公(曹操)から受けた御恩に背くことはできませんが、王者を志す君主のために道義を述べることはできます。劉将軍は彼らのために弁明してください」と答えた。劉備が曹操に報告すると、曹操は嘆息して「それは古人の行いだ。君が行うのは私の願いでもある」と臧霸に告げ、徐翕・毛暉を改めて太守とした。

曹操が袁紹と対峙しているとき、臧霸は精鋭を率いて青州に進出したので、曹操は東方を気にかけずに袁紹軍と戦うことができた。曹操が南皮で袁譚を破ると、臧霸らは祝賀のため拝謁した。このとき一族の子弟や、諸将の父兄を鄴に移住させることを勧めた。曹操は「蕭何が子弟を近臣に進めたとき高祖は拒まなかった。耿純が家を焼いて棺を背負ったことを光武帝は反対しなかった。わしもそれを軽んじはしないぞ」と言った。

東方で騒乱が起こると臧霸らは道義を守って征伐にあたり、海岱地域(青州)を平定した。その大きな功績によって、みな列侯に封じられ、臧霸は威虜将軍・都亭侯となった。また于禁とともに昌豨を討伐し、夏侯淵とともに黄巾賊徐和を討って、徐州刺史に任じられた。

沛国の武周は下邳県令で、臧霸はことに尊敬して彼の宿舎に訪れるほどだった。臧霸の部従事が法律違反をしたとき、武周はすぐさま逮捕して取り調べを行ったので、臧霸はますます武周を尊敬した。

孫権討伐に従軍し、先鋒として再度巣湖に入り、居巣を攻撃して勝利した。張遼が陳蘭討伐をしたとき、臧霸は別働隊として皖城に進軍し、呉の韓当を迎え撃って陳蘭救援を防ぐことになった。臧霸は韓当が出した兵と逢龍で戦い、韓当がさらに夾石に出した兵を撃ち破り、下がって舒に駐屯した。

孫権が数万人を船で渡して舒口に布陣させ、その軍勢を分けて陳蘭を救わせようとしたが、臧霸が舒にいると聞いて孫権軍は撤退した。夜、これを臧霸が追撃し、明け方まで百里余りも急行し、前後から敵を攻撃した。孫権軍は船に乗ることもできず、追い詰められて水に落ちる者が非常に多かった。かくて孫権は陳蘭を救出できず、張遼は陳蘭を撃ち破ることができた。

また孫権討伐に従軍して濡須口で敵と対陣した。臧霸は張遼とともに先鋒だったが、途中で大雨に遭い、本陣は撤退し、水位は高まって敵艦が迫ったので、将兵は狼狽した。張遼は無断で引き揚げようとしたが、臧霸は彼を止めて「公(曹操)は聡明な方で、我々を見捨てることはありません」と述べた。はたして翌日、撤退命令が届いた。このことを張遼が言上したので、曹操は臧霸を賞して揚威将軍とし、節を与えた。のちに孫権が帰服したので曹操は帰還し、臧霸は夏侯惇らとともに居巣に残ることになった。

曹丕が魏王に即位すると鎮東将軍に進められ、武安郷侯に封じられ、都督青州諸軍事となった。曹丕が帝位に就くと開陽侯、さらに良成侯に国替えとなる。曹休とともに呉を討伐し、洞浦において呂範軍を撃破した。

中央に召されて執金吾に任じられ、位は特進(三公に次ぐ)となる。軍事問題が起こるといつも帝の諮問を受けた。明帝曹叡が即位すると五百戸の加増で都合三千五百戸を領した。亡くなると威侯と諡された。

【参照】尹礼 / 于禁 / 袁紹 / 袁譚 / 夏侯淵 / 夏侯惇 / 韓当 / 呉敦 / 耿純 / 徐翕 / 徐和 / 昌豨 / 蕭何 / 臧戒 / 孫観 / 孫権 / 孫康 / 曹叡 / 曹休 / 曹操 / 曹丕 / 張遼 / 陳蘭 / 陶謙 / 武周 / 毛暉 / 劉秀(光武帝) / 劉備 / 劉邦(高祖) / 呂範 / 呂布 / 兗州 / 華県 / 海岱 / 開陽県 / 下邳県 / 晥県(皖県) / 魏国 / 鄴県 / 夾石 / 居巣侯国 / 呉 / 濡須 / 濡須口 / 舒県 / 舒口 / 徐州 / 城陽郡 / 青州 / 巣湖 / 泰山郡 / 東海郡 / 東莞郡 / 洞浦 / 南皮県 / 沛国 / 費侯国 / 武安郷 / 北海国 / 逢龍 / 利城郡 / 良成 / 琅邪国(瑯邪国) / 威侯 / 威虜将軍 / 王 / 騎都尉 / 郷侯 / 県令 / 侯 / 獄掾 / 刺史 / 執金吾 / 相 / 将軍 / 太守 / 鎮東将軍 / 特進 / 都亭侯 / 都督 / 部従事 / 列侯 / 揚威将軍 / 諡 / 黄巾賊 / 節

文聘Wen Pin

ブンペイ

(?〜226?)
魏後将軍・持節・新野威侯

字は仲業。南陽郡宛の人。

はじめ劉表の大将として北方の守りを担当した。劉表が亡くなると子劉琮は曹操に降伏した。しかし文聘は「荊州を守ることができなかったので、処罰を受けるのが当然です」と言ってお召しに応じなかった。曹操が漢江を渡るころになってようやく出頭した。曹操に「なぜ遅かったのだ」と問われ、「私は劉表さまを補佐して天子にお仕えするつもりでしたが、劉表さまはお隠れになりました。そこで遺児劉琮さまを守り立てて、漢川を防御戦として荊州を守ることにしました。その計画も失敗し、悲しみと恥ずかしさのあまりお顔を会わせることができなかったのです」と言い、涙を流してすすり泣いた。曹操も痛ましく思って「仲業、そなたは真の忠臣だ」と言い、彼を礼遇した。

曹操は文聘と曹純に劉備を追撃させた。こうして荊州が平定されると、曹操は文聘を江夏太守として、北方の兵を授けて呉との国境を守らせ、また関内侯の爵位を与えた。楽進とともに尋口で関羽を討伐して、延寿亭侯に進み、討逆将軍に任命された。また漢津で関羽の輜重隊を攻撃し、荊城で敵の船を焼き払った。

文帝(曹丕)が帝位に昇ると、長安郷侯に転封となり、節を与えられた。夏侯尚とともに江陵包囲作戦に従事し、文聘は別働隊として沔口に駐屯することになったが、途中の石梵で宿営したとき敵に遭遇し、それを撃退する武功を立てたので後将軍に昇任し、新野侯に取り立てられた。

黄初七年(二二六)八月《明帝紀》、孫権が五万の軍勢を率いて、自ら石陽の文聘を包囲した。ちょうど石陽では大雨が降って城壁が崩れていたが、まだ補修できないでいた。文聘は孫権の来襲を聞いて困じ果てていたが、わざと静寂を守って孫権に疑念を抱かせるしかないと考えた。そこで外からは城内の人が見えないようにして、自分は官舎に寝そべって立ち上がろうとしなかった。孫権はこれを見ると、「曹操は文聘を忠臣だと考えて、この郡を守らせているのだ。それなのにわしが来てもじっとしている。伏兵があるに違いない。そうでなければ援軍が来ているのだろう」と語り、二十日余りで包囲を解いて撤退した。文聘は孫権を追って撃破した。五百戸を加増され、合計千九百戸となった。

文聘は江夏郡を数十年にわたって守ったが、威信と恩寵によって敵国にも名声はとどろき、敵もあえて侵入することができなかった。文聘の所領は分割され、子文岱が列侯に取り立てられた。また文聘の従子文厚が関内侯となった。文聘は逝去すると威侯と諡された。文岱は先に亡くなっていたので、文聘の養子文休が相続した。文休が亡くなると、子文武が相続した。

【参照】夏侯尚 / 楽進 / 関羽 / 曹純 / 曹操 / 曹丕 / 孫権 / 文休 / 文厚 / 文岱 / 文武 / 劉協(天子) / 劉琮 / 劉備 / 劉表 / 宛県 / 延寿亭 / 漢江 / 漢津 / 漢川 / 荊州 / 荊城 / 呉 / 江夏郡 / 江陵県 / 尋口 / 新野県 / 石梵 / 石陽 / 長安郷 / 南陽郡 / 沔口 / 威侯 / 関内侯 / 郷侯 / 侯 / 後将軍 / 太守 / 大将 / 亭侯 / 討逆将軍 / 列侯 / 諡 / 節

呂虔Lu Qian

リョケン

(?〜?)
魏威虜将軍・徐州刺史・万年亭侯

字は子恪。任城国の人。

曹操は兗州にいたころ、胆略の持ち主と聞いて呂虔を従事に抜擢し、家子郎党を率いて湖陸を守らせることにした。襄賁校尉杜松の領民炅母らが叛逆し、昌豨と手を結んだので、曹操は襄賁校尉を呂虔に交代させた。呂虔は炅母ら数十人の首謀者を酒宴に招き、彼らが酔いつぶれたのを見計らって潜ませておいた壮士に撲殺させた。その配下の者どもも服従した。

泰山太守を兼務するようになったが、その地域は戦乱のため多くの人々が隠れ住んでいた。袁紹が中郎将に取り立ててやった郭祖・公孫犢ら数十人の山賊が泰山にこもり、山麓の住民に乱暴を働いていたが、呂虔は家子郎党を率いて泰山郡に赴任すると、恩愛と信義を示して彼らを帰服させた。彼らの中から壮健な者を選んで兵士としたので、泰山郡兵の精強さは州郡でも第一だった。

済南の黄巾賊徐和らがいたるところで県の長官たちを誘拐し、城邑を攻め立てていた。呂虔は夏侯淵とともに彼らと数十度も戦い、斬首・捕虜の数は数千人にもなった。また曹操の命により青州諸郡の兵を率いて東萊の李条を討って功績を立てた。曹操は呂虔を茂才に推挙し、泰山太守のまま騎都尉の官職を兼務させた。泰山にあること十数年、はなはだ威厳と恩恵があった。

文帝が王位に即くと裨将軍・益寿亭侯となり、徐州刺史に転任し、また威虜将軍の官職を加えられた。徐州では王祥を別駕として民事を一任したので、人々はよく賢者を任用したものだと評価した。利城の叛乱者を討伐し、斬首したり捕虜にしたりして功績を立てた。明帝が即位すると万年亭侯に転封となり、二百戸を加増されて合計六百戸となり、そののち呂虔は薨じた。

【参照】袁紹 / 王祥 / 夏侯淵 / 郭祖 / 炅母 / 公孫犢 / 徐和 / 昌豨 / 曹叡(明帝) / 曹操 / 曹丕(文帝) / 杜松 / 李条 / 益寿亭 / 兗州 / 湖陸県 / 襄賁 / 徐州 / 任城国 / 青州 / 済南国 / 泰山郡 / 東萊郡 / 万年亭 / 利城郡 / 威虜将軍 / 騎都尉 / 校尉 / 刺史 / 従事 / 襄賁校尉 / 太守 / 中郎将 / 亭侯 / 裨将軍 / 別駕従事 / 茂才 / 家兵(家子郎党) / 黄巾賊 / 長吏(県の長官)

許褚Xu Chu

キョチョ

(?〜?)
魏武衛将軍・牟郷壮侯

字は仲康。譙国譙の人。

身の丈は八尺以上、腰回りは十囲(?)もあり、雄々しく毅然とした容貌と絶倫の武勇を持っていた。漢末、若者や一族を数千家も集め、みんなで砦を固めて敵を防いだ。汝南葛陂の賊一万人が許褚の城塞を攻撃したとき、味方の軍勢が少なかったので、奮戦のすえ疲労は極みに達した。矢玉が底をつくと、仲間に水飲みや桝くらいの大きさの石を集めさせ、許褚はそれを敵に目がけて投げた。当たるところみな打ち砕かれ、敵はあえて近付こうとはしなくなった。

しかし食糧が乏しくなったため賊と和睦をいつわり、牛を出して食糧に交換してもらった。しかし賊が引き取った牛はすぐに逃げ帰ってくる。そこで許褚は陣地を出て、片手で牛の尾を引っ張り、敵陣に向かって百歩ばかり連れて行った。賊軍は驚いて逃げ去ってしまった。こうして周辺一帯では彼の噂を聞いて恐れ憚るようになった。

曹操がこの地方を平定すると、許褚は軍勢を挙げて帰服した。曹操は彼に会って「わが樊噲である」と言っている。その日のうちに都尉に抜擢され、曹操の宿衛にあたることになった。また許褚配下の侠客たちも虎士(親衛隊)とされた。張繡征伐では先陣として多くの首級を挙げ、校尉に昇任した。官渡への袁紹討伐にも従軍している。

当時、常従士徐他らは謀叛を企てたが、許褚が休暇で不在のときを狙って、刀を手に曹操の宿所に入っていく計画だった。許褚は宿舎まで帰ってきたところで胸騒ぎを覚え、すぐに引き返して曹操の側に立った。そうとは知らずに入ってきた徐他は彼の姿を見て大いに驚いた。許褚は彼の顔色が変わったのを見て謀叛を知り、すぐに彼らを打ち殺した。こうしたことから曹操はますます彼を信頼するようになり、外出のときも帰ってきてからも彼を側から離さなかった。許褚は鄴包囲戦でも武功を立て、関内侯の爵位を賜った。

韓遂・馬超討伐のため潼関まで従軍したが、曹操は許褚や虎士百人余りとともに南岸に留まり、軍勢を先に黄河北岸へ渡した。そこへ馬超が歩騎一万人余りを率いて曹操本陣に攻めかかり、雨のように矢を降らせた。許褚は曹操を支えて船に乗せたが、虎士たちも船にしがみついて転覆しそうになった。許褚は彼らを斬り捨て、左手では馬の鞍を掲げて太祖を矢から守った。船頭が流れ矢に当たって死ぬと、右手で舵を取って船を遡らせ、命からがら渡ることができた。

曹操は韓遂・馬超と軍勢を連れずに馬上で会見することにしたが、許褚だけが随行を許された。馬超は自分の強力を頼りにしていたので、曹操に接近して突き刺そうと思っていた。しかし彼の従者が許褚ではないかと疑い、「公がお持ちの虎侯はいるか」と訊ねた。曹操は振り返って許褚を指差した。許褚は目を怒らして馬超をにらみつけた。馬超は動くことができなかった。のち数日して合戦となり、馬超らは大敗したが、許褚は自ら首級を挙げ、武衛中郎将に昇進した。「武衛」という称号はこれが始まりなのである。彼は軍中で「虎痴」と呼ばれていたので馬超が「虎侯」と言ったのだが、今ではそれが彼の姓名だと思われている。

許褚は慎み深く法律を遵守し、誠実かつ重厚で言葉少なかった。あるとき曹仁が荊州から帰って曹操に拝謁したことがある。曹操が出てこなかったので曹仁は宮殿内に入ろうとしたところ、許褚が出てくるのに出会った。そこで曹仁は「中で座って話をしよう」と声をかけたが、彼は「王はお出ましになります」と言い残して宮殿内に引き返していった。曹仁は恨みを抱いた。ある人が許褚に言った、「征南将軍(曹仁)は王族の重臣なのにへりくだって君を呼んだんだ。なぜ断ったりしたのかね」。許褚「彼は御一門とはいえ外の諸侯、許褚は内の臣下の端くれです。大勢で話し合うので充分なのに、部屋にこもったりして、どんな私的な話をするのでしょうか」。曹操はそれを聞いて彼を中堅将軍に栄転させた。

曹操が崩ずると、許褚は号泣のあまり血を吐いた。文帝が践祚すると万歳亭侯に進められ、武衛将軍に転任したが、衛兵の総轄を任され、文帝とも非常に親密であった。明帝が即位すると牟郷侯七百戸に加増されたが、さらに子一人が関内侯の爵位を賜った。許褚は薨じると壮侯と諡された。

許褚とともに曹操の虎士になった者たちも征伐に従軍したが、曹操は彼らが勇者であると考えて部将に取り立て、そのうち将軍となったり侯に封ぜられた者は数十人、都尉・校尉は百人余りにのぼった。みな剣客であった。

【参照】袁紹 / 韓遂 / 徐他 / 曹叡(明帝) / 曹仁 / 曹操 / 曹丕(文帝) / 張繡 / 馬超 / 樊噲 / 葛陂郷 / 官渡 / 荊州 / 黄河 / 譙国 / 譙県 / 汝南郡 / 潼関 / 万歳亭 / 牟郷 / 関内侯 / 郷侯 / 校尉 / 虎士 / 常従士 / 征南将軍 / 中堅将軍 / 亭侯 / 都尉 / 武衛将軍 / 武衛中郎将 / 囲 / 諡 / 剣客 / 虎痴

典韋Dian Wei

テンイ
(テンヰ)

(?〜197)
漢武猛校尉

陳留郡已吾の人。

立派な容貌と人一倍の膂力、固い節義と任侠心を持っていた。襄邑の劉氏と睢陽の李永は仇敵となったが、典韋は彼のために報復してやることにした。李永はもとの富春県長であり、警備はきわめて厳しかった。典韋は車に鶏肉と酒を載せ、挨拶をしたいと嘘をついて門を開けさせた。懐に匕首を隠して中に入り、李永とその妻を殺した。おもむろに門を出て車の上の刀戟を手に取り、歩いて立ち去った。李永は市場の近くに住まいしていたので、市場中が大騒ぎとなり、追跡する者が数百人にものぼったが、あえて近付く者はいなかった。四・五里ほど行ったところで李永の仲間に出くわしたが、典韋はあちらこちらと暴れ回って脱出することができた。こうして豪傑たちに知られることになった。

初平年間(一九〇〜一九四)、張邈は義兵を挙げると典韋を兵士に取り立て、司馬趙寵に所属させた。牙門の旗は長大で、よく持ち上げられる人はいなかったが、典韋は片手で立てることができた。趙寵は彼の才能・力量に目を見張った。のちに夏侯惇に属し、しばしば首級を挙げる戦功を立て、司馬に任じられた。

興平元年(一九四)、曹操が濮陽で呂布を討伐したとき、呂布の別働隊が濮陽城の西四・五十里の地点に駐屯していた。曹操は夜襲をかけ、明け方には撃ち破ったが、まだ帰還しないうちに呂布が救援に来て、三方からゆさぶりをかけて攻撃してきた。そのとき呂布はみずから素手で戦い、日の出から午後にいたるまで数十合、激しくもみあった。曹操が突撃隊を募集すると典韋はまっさきに進み出た。典韋は志願者数千人を率い、みな着物と鎧を重ね着し、楯を棄てて長矛だけを持って戦った。

西側が窮地になっていたので典韋は突き進んでぶつかったが、敵は弓弩を乱発し、矢は雨のように降り注いだ。典韋は視力を失ったので等人に言った。「敵が十歩まで来たら言ってくれ」、等人「十歩です」、典韋「五歩で言え」、等人「敵が来ました」。典韋は手に十本あまりの戟を持ち、大声で叫びながら立ち上がった。手応えとともに倒れない者はなく、呂布の軍勢は後ずさりした。ちょうど日暮れとなり、曹操はようやく撤退することができた。

典韋は都尉に任じられて曹操の左右に留め置かれ、親衛隊数百人を統率していつも大帳の周りを固めた。典韋も雄壮であるうえに、配下の兵卒もみな士卒から選抜された者たちだったので、戦闘になるといつも先鋒を務めて敵陣を陥れた。典韋は校尉に昇進した。

性質は忠誠無比でいたって謹厳、いつも昼は日暮れまで立ち侍り、夜は帳の左右で眠り、自分の屋敷に帰って寝ることは稀だった。酒食を好み、飲み食いは人一倍で、御前で食膳を賜るたびに大いに飲み、左右に数人がついてやっと間に合った。曹操はこれを勇壮だと思った。典韋は大きな双戟と長刀などを愛用していたので、軍中では「帳下の壮士に典君がいて、一双戟八十斤を提げている」と言っていた。

建安二年(一九七)正月、張繡が曹操を出迎えて降伏したとき、曹操は非常に喜んで、張繡とその将帥を招いて酒を振る舞った。曹操が彼らに酒を注いでまわっているとき、典韋は刃渡り一尺もある大斧を持ってその後ろに立ち、斧を持ち上げて彼らを睨み付けた。張繡以下の諸将は顔を上げて見ることができなかった。

それから十日余り、張繡は叛逆して曹操の陣営を襲撃した。曹操は陣営を出て戦ったが負け戦となり、馬に乗って逃げ去った。典韋は門の内側で戦って賊を入れなかった。そこで敵兵は他の門を探して入った。このとき典韋配下の将校はまだ十人以上いたが、みな死に物狂いで戦い、一人で十人を相手にしない者はなかった。敵は進んだり退いたりするうち数を増やしたが、典韋が長戟を持って左右に暴れ回ると、一振りで十本以上の矛が打ち砕かれた。

左右にいて死傷した者もほとんどいなくなり、典韋は数十ヶ所も負傷していた。短い武器をもって接戦を挑み、敵が進み出て彼を打とうとすると、典韋は両脇に挟んで二人の敵を殺した。敵は進むことができなかった。典韋はまたもや突き進んで数人を殺したが、傷口が開き、目を怒らせて大声で罵りながら死んだ。敵兵はようやく近付いて彼の首を取り、手に手に渡して見せ物にし、軍中みなが典韋の体を見物しに来た。

曹操は舞陰まで引き返したところで典韋の死を知って涙を流し、彼の遺体を盗み出してくる者を募った。曹操は遺体が返ってくると自ら哭礼を挙げ、遺体を襄邑に送り返し、典韋の子典満を郎中に任じた。車駕が通り過ぎるたび、いつも中牢の生け贄で祀った。曹操は典韋を思い出し、典満を司馬に任じて身近に引き寄せた。

【参照】夏侯惇 / 曹操 / 張繡 / 張邈 / 趙寵 / 典満 / 李永 / 劉氏 / 呂布 / 已吾県 / 襄邑県 / 睢陽県 / 陳留郡 / 舞陰県 / 富春県 / 濮陽県 / 県長 / 校尉 / 司馬 / 都尉 / 郎中 / 牙門 / 牙門旗 / 哭礼 / 中牢 / 等人

龐悳Pang De

ホウトク
(ハウトク)

(?〜219)
漢立義将軍・関門亭壮侯

字は令明。南安郡豲道の人。

若くして郡吏や州の従事となった。初平年間(一九〇〜一九四)、馬騰に従い、叛乱した羌族・氐族を撃って功績を重ね、次第に昇進して校尉になった。

建安年間(一九六〜二二〇)、袁譚・袁尚らは黎陽において太祖(曹操)と対峙する一方、郭援・高幹らに河東郡を攻略させた。太祖は鍾繇に関中諸将を率いて迎撃させることにした。龐悳は馬騰の子馬超に随従し、平陽において郭援らと対峙する。龐悳は先鋒として郭援らを攻撃、これを大破してその手で郭援の首を斬った。

戦いが終わったあと、人々はみな郭援が死んだのに彼の首がないと言った。龐悳が遅れてやって来て鞬(ゆぎ)の中から首一つを出すと、それを見た鍾繇は大声で泣いた。郭援は鍾繇の甥であった。龐悳が鍾繇に謝罪すると、鍾繇は言った。「郭援は我が甥だが国賊である。卿はなぜ謝るのだ?」この功績により中郎将の官を授かり、都亭侯に封ぜられた。

のちに張白騎が弘農で叛逆すると、龐悳はまた馬騰に従って征伐し、両殽の間で張白騎を破った。戦闘のたび、常に敵陣に突入したり敵軍を撃退して、武勇は馬騰軍でも随一であった。

のちに馬騰は朝廷に召されて衛尉となり、龐悳は留まって馬超に属した。太祖が渭南で馬超を破ると、龐悳は馬超に従って漢陽郡に亡命し、冀城を守った。のちにまた馬超に従って漢中に出奔し、張魯に従った。太祖が漢中を平定すると、龐悳は人々とともに降伏した。太祖はもともと彼の驍勇を聞いていたので、立義将軍の官を授け、関門亭侯に封じ、所領三百戸とした。

侯音・衛開らが宛城で叛逆すると、龐悳は配下を率いて、曹仁とともに宛城を攻め落として侯音・衛開を斬り、そのまま南に進んで樊城に屯し、関羽を討伐した。樊城にいた諸将は龐悳の兄が漢中にいたので、彼をすこぶる疑った。龐悳はつねづね言っていた。「我は国恩を受けており、義は死を顕すことにある。我は自ら関羽を撃ちたいと思う。今年中に我が関羽を殺さなければ、関羽が我を殺すだろう」のちに自ら関羽と交戦し、関羽を弓で狙って額に射当てた。そのころ龐悳はいつも白馬に乗っていて、関羽の軍中では彼を白馬将軍と呼んで、みな恐れ憚った。

曹仁は龐悳を樊城の北十里に屯させていたが、ちょうど十日余りも続く長雨となり、漢水は氾濫し、樊城の平地は五・六丈も水没したので、龐悳は諸将とともに堤に登って水を避けた。関羽が船に乗って攻め寄せ、大船で四方から堤の上に矢を降らせた。龐悳は甲冑を身に付けて弓を持ったが、放った矢が当たらぬことはなかった。将軍董衡・部曲将董超らが降服しようとしたので、龐悳は彼らを捕まえて斬り捨てた。

日の出から力戦を尽くして正午を過ぎたが、関羽の攻撃はますます激しくなるばかりだった。(龐悳の手元の)矢が尽き果てたので、刀剣を手にして接近戦をした。龐悳は督将の成何に言った。「吾は聞く。良将は死に怯えて逃げ延びず、烈士は節を損なって生を求めず、と。今日は我の死ぬ日だ」。戦いながらますます憤怒し、気迫はいよいよ壮烈になった。

しかし浸水がひどくなり、軍吏や兵士はみな降服してしまった。龐悳は麾下の将一人、五伯二人とともに弓を引き絞りながら矢の雨をかいくぐり(?)、小船に乗って曹仁の陣営に帰ろうとしたが、水の勢いで船が転覆して弓矢を失った。

転覆した船につかまって一人で水中にいたところ、関羽の捕虜になったが、立ったまま跪こうとしなかった。関羽は言った。「卿の兄は漢中にいる。我は卿を将に取り立てたく思っていたが、なぜ早々に降服しなかったのだね?」、龐悳は関羽を罵って言った。「小僧め、なぜ降服を言うのか!魏王(曹操)には武装兵百万があって、威信を天下に振るわせておられる。汝(おまえ)の劉備は凡才に過ぎぬ。どうして敵うものか!我は国家の鬼となるとも、賊将にはならぬぞ」。とうとう関羽に殺されてしまった。

太祖は聞いて悲しみ、彼のために涙を流した。彼の二人の子を列侯に封じた。

文帝(曹丕)は王位に即くと、龐悳の墓前に使者をやって諡を賜った。「思うに侯は戦いにおいて果毅を明らかにし、困難を踏み越えて功名を成し遂げた。名声は当時に溢れ、義心は往昔よりも高かった。寡人は哀悼し、諡して壮侯とする」。また子の龐会ら四人に関内侯の爵位を賜り、所領をおのおの百戸とした。

【参照】衛開 / 袁尚 / 袁譚 / 郭援 / 関羽 / 侯音 / 高幹 / 鍾繇 / 成何 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 張白騎 / 張魯 / 董衡 / 董超 / 馬超 / 馬騰 / 龐会 / 龐柔(龐悳の兄) / 劉備 / 渭南 / 宛県 / 河東郡 / 漢水 / 漢中郡 / 関中 / 豲道県 / 関門亭 / 漢陽郡 / 冀県 / 魏 / 殽山(両殽) / 弘農郡 / 都亭 / 南安郡 / 樊城 / 平陽県 / 黎陽県 / 衛尉 / 王 / 関内侯 / 郡吏 / 校尉 / 従事 / 将軍 / 壮侯 / 中郎将 / 亭侯 / 督将 / 列侯 / 部曲将 / 立義将軍 / 諡 / 羌族 / 五伯 / 氐族 / 白馬将軍 / 部曲 / 鞬

龐淯Pang Yu

ホウイク
(ハウイク)

(〜)

【参照】

閻温Yan Wen

エンオン
(エンヲン)

(〜)

【参照】