未確認情報

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未確認というか、まあ怪しい情報ですね。民間伝承とか。要するに小事典に載せられないようなもの。

  1. 龐徳公の字は「子魚」です。ソースを見てみる
  2. 関平の字は「坦之」です。検索してみる
  3. 関索の字は「維之」です。検索してみる
  4. というか、関羽関係は【忠義堂】だけで大体わかりますよね。中国語だけどがんばって見てみる
  5. 習珍は隆中の武侯祠で武侯にはべる十二将の一人です。ソースは【転転大陸】です。
  6. 諸葛亮の家族は以下の通り。ソースは【海天三国】【maltz的三国小説《幻》】です。
    章氏
    諸葛珪の妻、諸葛亮の母。
    諸葛亮大姉
    諸葛亮が襄陽に住んでいたころ、中廬県の大姓蒯祺に嫁いだ。(『襄陽記』にも記述あり)
    諸葛質
    諸葛瞻の子。蜀滅亡の後、劉禅の子である洮陽王劉恂は魏への降服を潔しとせず、諸葛質を使者として蛮夷の総帥孟虬と誼を結び、南中の永昌に住まいを構えることができた。
    諸葛懐
    諸葛亮の末子。晋の太傅王覧が「漢代の名臣の末裔を京都に招いて職務に就けましょう」と提案した。しかし諸葛懐だけは出仕しなかった。うんぬん。
    諸葛果
    諸葛亮の女。成都城の西南に朝真観、別名乗烟観という建物がある。古老の言い伝えによると、諸葛果がこの地で修行し、仙女となって天に昇ったということである。
    林氏
    諸葛均の妻。南陽の人である。兄の諸葛亮が弟のために彼自身で選んでやった。
  7. 呂布が董卓を殺したとき、百姓たちは向かい合って喜び、舞い踊り、みんな家中の指輪・衣服・ベッドを売って、お酒とごちそうを買い、お互いに祝賀を挙げ合いました。長安の酒と肉の値段はそのため急騰しました。(御覧引董卓別伝)
  8. 公孫瓚は破虜校尉鄒靖とともに胡賊を追撃しましたが、鄒靖が包囲されたので、公孫瓚が引き返して救援に向かうと、胡賊はすぐに破れ散り、鄒靖の包囲は解かれました。勝利に乗じて追い詰め、日没後は松明を掲げて敗兵を追いました。(御覧引英雄記)

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